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6月朝礼学校長講話「三尸(さんし)の虫」

 今日は、日本に古くから伝わる「庚申信仰」についてお話します。その由来は、中国の三大宗教(儒教、仏教、道教)の一つである道教にあり、平安時代に伝来したそうです。

 私たちが普通「干支」と言っているのは、「十干十二支」のうちの「十二支」のことです。本来「干支」は、十干と十二支を組み合わせて60通りになり、年に当てはめると60年で一巡します。1番目が「甲子(きのえ/ね)」となり、音読みでは「こうし」、最後60番目は「癸亥:きがい(みずのと/い)」となります。

 甲子園球場は、大正13年(1924)が「甲子」の年で、十二支の最初の組み合わせで縁起が良いとして、「甲子園大運動場」と命名されたのが由来だそうです。

 今年(2019)は36番目の「己亥:きがい(つちのと/い)」となります。そして「庚申:こうしん(かのえ/さる)」は57番目に巡ってきます。それを日に当てはめると60日で一巡することになります。

 庚申信仰では、人の体内には「三尸(さんし)」という3匹の虫が潜んでいると考えられていました。三尸とは、「上尸」(頭の中に潜み、首から上の病気を引き起こす虫)、「中尸」(腹の中に潜み、臓器の病気を引き起こす虫)、「下尸」(脚の中に潜み、腰から上の病気を引き起こす虫)とされていました。

 この三尸は人が死ねば自由になることができるので、人を欲深くして悪いことをさせたりして、寿命を縮めようと常々隙を狙っているそうです。しかし普段は体内から出ることはできず、庚申の日だけ人が眠っている間に体内から出ていくと考えられました。人が眠った後に、三尸は天に昇って天帝(閻魔大王)にその人の悪行を報告し、報告を聞いた閻魔大王はその人の寿命を縮めるそうです。

 しかし眠らないと、三尸は体を抜け出せません。そのために庚申の日の夜は、寝ずに夜を明かす「庚申待」という習わしが生まれました。日本では平安時代に貴族の間で始まりました。寝ずに神仏に祈りを捧げたり、和歌を詠んだり、音楽を奏でながら、夜を明かしたそうです。

 江戸時代になると民間にも広まり、「庚申講」と呼ばれる集まりをつくり、会場を決めて集団で「庚申待」をする風習が広まったそうです。その「庚申待」を18回繰り返すと、その記念に「庚申塔」や「庚申天」と刻んだ石碑を建てるようになり、街中に多くの石碑が、見られたそうです。

 明治時代になると、政府が「庚申信仰は迷信だ」として、多くの石碑が、破壊、撤去されたそうですが、今でも石碑は各地に数多く残っています。現在も「庚申の日」に、縁日やお祭りを行う神社やお寺、また地域の行事、文化として続けられている所もあります。

 見方を変えると、「三尸」は自分の良心が姿を変えたものかも知れません。普段の行いは、いくら隠したところで自分自身が一番よく知っています。庚申の日の夜明かしは、定期的に自らを振り返るために必要な機会だったのかもしれません。

 2019年の庚申の日は、1/23 3/24 5/23 7/22 9/22 11/19の6回となり、令和元年としては3回になるようです。自分自身の心に恥じない行いができているか。今一度、振り返ることや普段の心掛けの積み重ねこそが、その先の大きな結果に繋がるということを、改めて感じてほしいと思っています。